武蔵小杉の歴史
「中原街道と武蔵小杉」3 小杉御殿と小杉村
小杉御殿とカギの道
徳川家康が江戸に幕府を開くと、多くの大名がこの街道を通って江戸へ向かった。
その頃から将軍や大名たちの宿舎に使うために、慶長13(1608)年に建てられたのが「小杉御殿」の始まりである。
寛永17(1640)年に御殿は建て直され、約1万2千坪(約4万㎡)という広い敷地を占めるようになった。
小杉村名主、安藤家に残されている「小杉御殿見取絵図」によれば、御殿の表御門は中原街道に面し、左手の奥に将軍が休む「御主殿」、北側の裏門をくぐると「御蔵」と「御賄屋敷」が見え、御 主殿の東側には御殿番屋敷や陣屋、そして代官屋敷などが立ち並んでいた。
鷹狩りを好んだ家康・秀忠・家光などの将軍は、民情視察をした際には小杉御殿を利用していた。その頃の小杉村は、江戸へ往来する大名や武士・町人・旅芸 人などで賑わった。一膳めし屋、宿屋もできた。川崎で一番活気のある街道(場所)であった。「徳川実紀」(家康から、10代家治までの歴代将軍の政蹟の記録)によると、家康・秀忠・家光・家綱などが鷹狩りのあと「小杉御殿」で何回も休息している。
中原街道は、西明寺の参道前で直角に左に折れ、40mほど進むと、また直角に右に折れて進む。
車の交通量が多くなった現在、見通しの悪さや、急カーブなどで危険が多い難所だ。馬車や荷車が通っていた明治・大正・昭和にかけても不便なカーブで、平成の現在でも同じである。現在、街道の拡張工事等で道幅を広げたり、直線道路にするため家屋の移転等が進んでいる。
江戸時代には、こうした見通しのきかない「カギの道」は御殿を防衛するために工夫されたもので、多摩川や西明寺、泉沢寺などは御殿の守りに役立っていたという。
東海道が整備されると「小杉御殿」の存在意義も薄れ、建物は明暦元(1655)年に品川の東海寺へ、寛文12(1672)年、残りは上野弘文院へ移築され姿を消した(万治3『1660』年という説もある)
小杉御殿がなくなった後、江戸時代のいつ頃か、御主殿稲荷・陣屋稲荷・御蔵稲荷と呼ばれる稲荷が、それぞれの建物のあったといわれる場所に建てられた。
現在は、それぞれ土地の所有者が管理している。