「中原街道と武蔵小杉」3 小杉御殿と小杉村

小杉陣屋と小泉次大夫

小泉次大夫の記念碑と日純の銘のある碑(左側の2基)(昭和50年)

街道沿いの今の小杉陣屋町(中原街道と多摩川土手の中間の位置)に、小泉次大夫の陣屋があった(西丸子小学校校門前にある墓地付近に)。
次大夫は、家康の許しをえて、稲毛・川崎二ヶ領用水路を開削した代官で、近くには小杉御殿があった。
慶長2(1597)年領内視察のため多摩川沿岸を巡視した家康に、多摩川を利用して用水を造り、川崎・稲毛の二ヶ領に新田を開くことを進言した。
その結果、小杉に陣屋が置かれ工事が始まった。多摩川右岸の稲毛・川崎二ヶ領用水、左岸に世田谷・六郷用水の四ヶ領用水を建設する工事だった。
慶長2 年2 月に川崎領、翌年3 月に稲毛領の測量をし、慶長4(1599)年4 月から工事に入った。そして慶長16(1611)年3 月、ついに完成した。完成までに14年かかる難工事であった。
二ヶ領の用水路は、小杉と上小田中の神地との境を南流している。このため、米どころとなった中原の「稲毛米」は江戸でおいしいと大変評判が良かった。
二ヶ領用水工事が最終段階に入った慶長13(1608)年、「小杉陣屋」の西隣に2代将軍徳川秀忠により「小杉御殿」が造営された。江戸城の拡張工事が完成すると、参勤交代で遠い西国から来る大名も増え、将軍の視察や鷹狩りで地方に行くことも多くなったため、御殿を建てる必要が生じたためである。
次大夫は工事の間、日頃、帰依している僧「日純」を安房国(千葉)小湊の妙本寺から招き、小杉陣屋の裏の多摩川べりに妙泉寺を建立した。
当時、家康や秀忠は日純との会話を楽しみにしていて、しばしばこの地を訪れている。 現在、日純が建てたといわれる碑が2つ残されているだけで、近くに無住の祖師堂がある。境内に立つ三角柱に「日蓮宗小泉次大夫開基小杉妙泉寺」と墨書され、左面に「稲毛川崎二ヶ領用水開かい塞さく祈願」とある。
二ヶ領用水が完成した翌年、次大夫は川崎の砂子に隠居して代官職を嫡子久弥助吉明(ひさやめすけよしあき)に譲っている。次大夫は元和9(1623)年12 月、85 歳で没した。

妙泉寺(無住)境内入り口の三角柱。現在は100軒ほどの檀家で維持されている(平成20年)


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