武蔵小杉の歴史
「中原街道と武蔵小杉」1 堤防で姿を消した90軒の集落
<資料>八百八橋碑除幕式によせて
百万都市川崎の第二の中心地、武蔵小杉駅前に郷土の偉人をしのぶ遺跡ができ、美化運動のモデル地区に一つの景観を添えることになりました。建てられた場所は小杉一丁目、新丸子町地先で、ちょうど小杉・丸子の村境にあたります。
橋は田圃道が小川をわたる形に昔の石を用いたもので、市公園課の設計により、今井上町の和田園が担当されました。
八百八橋碑は金刺市長の題字、碑文は元中原小学校長中山貞治先生の案により、郷土研究会の人たちが合作したもので
「明和、安永のころ、武州橘樹郡上丸子村のほしか屋野村文左衛門は、中原街道沿いの村むらに千個の石橋をかけるこ
とを思いたち、寛政三年この世を去るまでに、八〇八基をつくったと伝えられいる。
後世この橋を八百八橋とよんできた。
ここにもとの橋を復元し、翁の偉業をたたえるものである。」
とあり、裏面に
昭和三十九年十一月二十三日
武蔵中原観光協会
丸子多摩川観光協会
と記してあります。
明和元年は紀元一七六四年で今からちょうど二百年前で、寛政三年はそれから二十七年目となります。発見された石には安永二年九月吉日と書かれたものが多く、この年の春、江戸には疫病が大流行し、十九万人もの人が死亡したと記録されています。またこのころ、関東では各地の河川がたびたびはんらんし、土橋や木橋はその都度押し流され、住民の苦労も思いやられます。
野村家は、今は丸子通一丁目六一〇番地で浴場とたばこ屋を営んでおられますが、大正十年多摩川河川改修までは中原街道北側旧堤防から三軒目にあり夏でも水の枯れることのない井戸があるので知られていました。
「ほしか」というのは「乾干」とも書き、魚肥ことで、当時このあたりは稲毛米の本場で、化学肥料やし尿(下肥)の少ない時代、ほしかは農家の最も重要な資源で、今の東京湾、相模湾沿岸から船で多摩川をさかのぼり、丸子の渡しあたりでかし(河岸)揚げし、近郷の農家へ配給したものであります。
中原街道は虎ノ門を起点とし、高輪、五反田、丸子、小杉から都筑郡、高座郡を経、相州平塚在の中原に至るものですが、野村家の販路は大山のふもと海老名耕地まで及んでいたことがわかります。
石は伊豆の小松産といわれ、その地方では今も盛んに切り出されています。
復元に用いられた石の一本は、元市の坪の鬼が橋にあり、南町会長杉山島太郎氏の報告により発見されたもので、「上丸子村野村文左衛門」と大きく書かれています。あとの二本は、小杉御殿町一丁目九二八番地先の県道に架せられたもの、改修の際、付近のみぞの護岸に用いたものを更に数年前、道水路改修のため不用となり、しばらく私の家に保管していたものであります。
碑の前に飾られたものは、野村家で保存されていたもの。
上丸子八幡町の大楽院にあるものには
「此橋小杉村橋御座候江共此一枚上丸子村野村文左衛門寄進仕候安永二歳己九月吉日」
と記され、貴重なものであります。
私の青年時代までは、このような橋はいたるところに見受けられましたが、だんだんと道路の拡幅や水路の改修でほとんど見当たらなくなりました。
記念碑は元中原青年団が石井英夫団長のころ、皇紀二千六百年記念事業として二千六百円で青年道場多摩川報国寮を建てた故事にならい、八万八百円で上小田中の石留石材店に施工を依頼したものであります。
野村翁顕彰の計画は、昭和十二・三年頃、元中原町長安藤安氏や市嘱託中道等氏によって建てられましたが、安藤氏の没後しばらく立ち消えとなっていました。昭和十四年二月二十二日の東京日々新聞、中外商業新報に相当詳細に報道されたこともあります。
昭和二十六年、武蔵中原観光協会、昭和三十年、川崎郷土研究会発足等により、それぞれ話題となり、更に丸子多摩川観光協会の賛同を得、ここにようやく実現を見るに至ったものであります。
東横線新丸子駅前岡埜栄泉堂木我君から数年前相談を受けたことがありますが、同店では銘菓「八百八橋」を売出し、除幕式の御供物として寄贈されたこともよい話の種となりましょう。
野村家の墓地は上丸子八幡町の土山(どやま)にあり、野村家の当主栄一君のおじいさんの文五郎氏は中原町時代家屋税調査員等もやられた方で、この方から五代目前の文左衛門氏ということになります。
未だ調査の足りない点もありますが、除幕式にあたり以上のことを述べて私の責任を果たしたいと思います。
昭和三十九年十一月二十三日
川崎郷土研究会長 小林英男