武蔵小杉の歴史
「中原街道と武蔵小杉」1 堤防で姿を消した90軒の集落
丸子の渡し
今の中原街道は多摩川の堤防で切れているが、大正8(1919)年までの街道は川岸の渡船場、そして対岸の東京と結ばれていた。丸子の渡しの渡船の権利は、大正15(1926)年に道路法が改正されるまで、対岸の下沼部村と上丸子村、そして大貫重兵衛の3者が持っていた。そして利益を分けあっていた(10日間ずつ管理していた)。
江戸時代には、渡船の権利は東京の下沼部村と上丸子村の3人が持っていた。上丸子村の3人は、二子村の大貫市郎兵衛に渡船の権利を55両で譲渡したので、下沼部村と大貫市郎兵衛の2者が渡船の権利を持つことになった。
宝暦10(1760)年、上丸子村は「市郎兵衛が持っている権利を上丸子村に譲れ」と訴えた。その結果、市郎兵衛の権利の半分を上丸子村に譲ることになった(下沼部村と上丸子村と大貫市郎兵衛の3者となる)。
多摩川の水かさが増すと、渡船の料金が高くなるようになっていた。
普通の深さ(1.5m)より更に1.5m水かさが増すと「渡し止め」になり、船は動かなくなった。
渡船は4月から10月までの時期に行い、水枯れの10月から3月までの間は、仮橋を架けていた。仮橋は長さ70m、幅は1.8mの木橋だった。しかし砂利採集船の往来が激しくなると、橋を架けることができなくなった。
渡船は2隻あり、船頭が1~2人乗船していた。船の上には厚板が敷きつめられ、人が乗るとつかまる所がなかった。
荷車は、船の高さに合わせた船着場から乗せた。馬力(馬車)を乗せる時は、馬が暴れだして危険なことがよくあったという。
「丸子の渡し」は昭和9(1934)年12月に廃止になるまで(丸子橋の開通)、東京-中原(平塚市中原)を結ぶ唯一の交通機関だった。
昭和初期には東京五反田・三軒茶屋方面に、田畑の肥料として人糞を集め運ぶ街道として栄えた。中原街道のことを「こやし街道」と呼んだほど、沢山の肥桶を運ぶ車が通行していた。
夜明け前の早朝から家を出て愛宕下に昼頃着き、帰りは夕方暗くなってからだったという。急坂が多く、帰りは人糞を荷車に積んでいるので、かなり苦労したという。
明治13(1880)年の渡船賃(丸子の渡船)