武蔵小杉の歴史
「中原街道と武蔵小杉」1 堤防で姿を消した90軒の集落
渡し場の集落(松原通り)
丸子の渡し場で船から降りると、しばらくは砂利の河原だった。人の往来でできた100m ほどの道が続いた。渡し場は、大水などで位置が変わることがあった。自然堤防に上るゆるやかな坂の所に数本の梅の木があった。その近くにつるべ井戸があり、道行く人々の喉をうるおしてくれた。
坂を上ると、左側に2 階建ての料理屋旅館の「鈴半」があった。目立った構えの家で川と道路に面して手すりが付いていた。鈴丸半六が始めたもので家の前には、直径30㎝くらいの梅の古木があっ た。
店の入り口横に「なまずのかば焼き」の看板があり、人目をひいた。
この「鈴半」は屋形船を4 隻持っていた。客の注文があると、船頭は七輪を持ち込み投網で捕った鮎を食べさせた。船頭に、青木根や上丸子の農家の若者が雇われていた。
多摩川の清い流れと、美味しい料理を求めて、多くの人々が集まっていた。
「鈴半」の「鯰なまずの蒲焼」は、値段の高い高級料理屋だったが有名だった。東京のお金持ちや会社の接待客が多く、土地の人々はほとんど利用できなかった。
「鈴半」の斜め前に「ほしか屋」と呼ばれる家があった。ほしか(干鰯)とは、イワシなど小魚を干した肥料のことだ。
肥料商「ほしか屋」の野村文左衛門は、街道筋から海老名方面にかけて多くの石橋(八百八橋)を架けて、販路の拡大をはかった。明和2(1765)年頃からのことだ。
寛政3(1791)年に、この世を去るまで八百八の橋を架けたと伝えられている。
昭和39(1964)年、中原観光協会は、武蔵小杉駅前広場に橋を復元して業績を顕彰したが、駅前改良工事ですべて取り壊され、歩道橋のたもとに碑を移設、石橋が埋められてしまい残念だ。碑は石橋の前でさびしく立っている。
石橋の一部は中原区役所の庭、大楽院などにも保存されている。
「鈴半」「ほしか屋」などは、渡船場集落の立地を上手に生かした商法で営業していた。
松原通りには、このほか「米屋」「菓子屋」「煎餅屋」「ちょうちん屋」「そば屋」「いかけ屋」「かご屋」「床屋」「風呂屋」「下駄足袋屋」「質屋」「畳屋」「たばこ屋」「油屋」な どの店が並び、商いをしながら農業(桃つくり)をしたり砂利掘りをして生活していた。