新・小杉散歩
2021.01.26
工業用水として利用された昭和〜平成、そして現在の二ヶ領用水
二ヶ領用水の歴史シリーズ。誕生物語、農業用水として利用された江戸〜昭和初期の二ヶ領用水に続き、完結編として、昭和から平成に工業用水として活用された時代と現在の二ヶ領用水の保護活動について触れてみたいと思います。
川崎市臨海地区の工業化のきっかけは大正12(1923)年の関東大震災でした。震災後、臨界地区に多くの工場が進出。そのため工業用水に用いていた地下水が枯渇し始め、大量の工業用水の確保が課題となりました。
同時期、同じく工場の進出により、中原区の農地は住宅用地に変わり始めます。それにより、二ヶ領用水の農業用水に余剰が出るようになっていました。そのために二ヶ領用水の水を使う権利を持っている水利組合は、水農地の減少により組合費の収入が減り、二ヶ領用水の維持費が賄えないという事態に陥っていたのです。
そこで、昭和12(1937)年、川崎市と組合の交渉によって昭和14(1939)年に日本最初の公営工業用水道である「平間浄水場」が建設されました。この水道から引かれた用水は市内16工場に給水され、戦時中は大量の水を消費する軍需工場でも使用されたそうです。そしてこの「平間浄水場」は「平間配水所」として、現在も臨海部への工業用水の水量・水圧調整を行っています。
工業化は戦後、昭和30(1955)年以降の高度成長の時代にも進み、昭和30年代半ばには急激な都市化で二ヶ領用水が雨水排水・生活排水路の役目も担うことになりました。
それが原因となり、水路の中は、ヘドロが堆積して悪臭がしてくるようになり、空き缶や自転車まで捨てられているほどに汚染されてしまったのです。昭和49(1974)年には、生活排水の混入で水質悪化が進んだこともあり、工業用水として二ヶ領用水からの取水が一部停止されることにまでなったそうです。
汚染の悲劇もさることながら、「あばれ川」である多摩川の氾濫による水害も大いに人々を苦しませました。1974年には台風16号で宿河原堰(しゅくがわらぜき)左岸にあった小堤防(現在の東京都狛江市猪方地先の堤防)が破堤。19戸の家屋が倒壊流出した狛江大水害が起こりました。このときの家屋が濁流に呑み込まれるシーンは、テレビニュースで繰り返し流され、テレビドラマ『岸辺のアルバム』でも使用されましたので、記憶にある方も多いのではないでしょうか。この惨事の様子は今もネット等で見ることができます。
しかし、人々もただ手をこまねいていただけではありませんでした。
この宿河原堰はその後改修を繰り返され、平成11(1999)年に完成した可動式のゲートを備えた堰が現在も活躍しています。また、都市化で土を失ったがゆえに起こる「都市型水害」を防ぐため、地下の貯留管に雨水を一時的に貯めておく渋川雨水貯留管も建設されました。
汚染の問題も昭和50年代の半ばから、さまざまな市民団体が立ち上がり、現在では大いに改善されています。
二ヶ領用水の将来を考える会議が開かれ、二ヶ領用水の歴史が知らされることで、水辺環境を再生して利用していく団体、水辺を活用した灯籠流しやお祭りをはじめる団体、苗木を植えて並木道づくりをする団体、散策会を開く団体、環境マップをつくる団体、生き物に触れる体験会を行う団体などの様々な団体が生まれたのです。
こうした動きを受け、川崎市は昭和60年(1985〜)頃から、二ヶ領用水両岸の遊歩道整備、親水護岸の整備、埋め立てた用水の緑道化などを実施してきました。
そうした二ヶ領用水を愛する人々の努力により、現在の二ヶ領用水は、工業用水として、また人々の癒しの場として400年の時を越えてなお活躍を続けています。春夏秋冬、私たちを和ませてくれる二ヶ領用水にこんな波乱万丈なドラマがあったとは、今の姿からはとても窺い知れなかったことでした。
もうすぐ2月。2月の後半には二ヶ領用水沿いの河津桜が見頃を迎えます。長い歴史に想いを馳せて今を慈しむ、今年はそんな楽しみかたをなさってみてはいかがでしょうか。先人たちの努力の結晶である清らかな流れはきっと、勇気と希望を私たちに与えてくれるはずです。
- 参考:
- 二ヶ領用水竣工400年プロジェクト《記念事業実行委員会》「二ヶ領用水知絵図 改定版」
- 中原区二ヶ領用水竣工400年記念事業ガイドブック「なかはら二ヶ領用水と昭和の風景」
- 川崎市上下水道局 「平間配水所用地等の有効利用に関する基本方針(案)」
- 京浜河川事務所「多摩川の名脇役 二ヶ領宿河原堰」
- 狛江市HP「悪夢のような多摩川堤防決壊」