新・小杉散歩
2020.05.27
二ヶ領用水誕生物語
春の桜はもちろんのこと、季節ごとに私たちを楽しませてくれる二ヶ領用水。何度となく散歩スポットとしてご紹介していますが、今回はその誕生物語に触れてみたいと思います。
「川崎の歴史五十三話」(著・三輪修三 1986年、多摩川新聞社発行)によると、二ヶ領用水は徳川政権下において最初の大規模な農業用水として開削されたとあります。
江戸に入府した徳川家康は、江戸近在の生産力向上による年貢収納の安定と増強をはかりました。二ヶ領用水開削は、その政策の下、多摩川の水を中野島から引き、稲毛、川崎の二領の沖積層地に位置する村々に、幹線水路だけで32キロメートルもあるといわれるほどの長さの用水路で引水する計画です。また、この開削には、多摩川の旧流路を利用したり、中世の荘園制下に存在した小規模な用水を接合し、広域におよぶ大用水として蘇生させるという側面もあったということです。
この用水路を開発する用水奉行の命を受けたのは、駿河国富士郡小泉郷(現在の静岡県富士宮市小泉付近)で、平 安時代から用水を開削・管理していた植松家の長男、小泉次大夫でした。今も富士市に残る鷹岡・伝法用水路や、そこにかかる二本樋は植松家が代々管理していたものだということですから、その経験をかわれての抜擢だったのではないかといわれています。 そうして用水奉行として、家康より天領のみならず私領(旗本領・寺社領)の農民も人足として徴発できる黒印状を与えられた次大夫は、小杉に陣屋を置きニヶ領用水の工事の指揮・監督を行ったのです。
当時の用水工事とはいったいどういったものだったのでしょうか。工法はほとんど分からなかったのですが、高低差の 測量の方法は資料が残っていました。二ヶ領用水にこの測量法が実際使われたのかどうかは分からないのですが、当時の一般的な測量法だったようです
図には「見盤元器」の使用方法とあります。これは水木と呼ばれる棒状のものの上部を水平にして、他地点に置いた目当板を上下に動かし同じ高さが見通せる位置で目当て板を固定し、地面から目当板までの高さを測り、その高さから地面から刃圭の横針までの高さを差し引けば2地点間の高低差が得られるというものです。
驚いたのは、この手法が現在の測量方法と、道具の精度などは大いに進化しているとはいえ、基本的な考え方が同じだということです。つまり測量の基本はこの時代には完成していて、測量はかなり正確に行われたということなのではないでしょうか。
とはいえ、工事そのものは現在とはまるで違い、すべてが手作業です。クワやスキで土を掘り、モッコに入れて運んで土手などを造り、蛇篭とよばれる石を詰めた竹かごで堰を造ったというのですから、大変な作業だったと思われます。ときには命がけのこともあったのでしょう。その危険や苦労は、次大夫が名僧日純を住職として招き、陣屋の裏の多摩川べりの廃寺同様であった寺を「妙泉寺」として創建し、用水路開削工事の成功を祈念したということからもうかがえます。
かくして、14年の歳月と多数の人の力をかけられて二ヶ領用水は1611(慶長11)年に完成し、約2000ヘクタールの
水田に水が引かれるようになりました。完成後の1616(元和2)年には完成した用水の水の配分や管理を円滑に行うため、用水受益村によって組合も結成されました。組合の構成村は60ということですから、60もの村に用水は行き渡ったということになります。
長い歳月をかけ引かれた水は、その後江戸近郊の中でも米の生産量が高く、稲毛米と呼ばれる良質な米を産出する土地を育み、長く土地を潤しました。
そのさらに後、様々な形で利用され、それがゆえに汚染の悲劇に晒され、そして今は人々の癒しの場として残る二ヶ領用水。人間にたとえるなら波乱万丈のその運命の序奏もまた大いにダイナミックなものだったようです。
思えば古代文明はすべて川の近くにあったように、水は生きとし生けるものすべてに必要なもの。 水を畏れ、水を求める。その祈りにも似た思いは昔も今も変わることなく、絶えることのない川の流れのように私たちの心の中にあるのだと改めて気づかされました。変わることのない水の流れと空の青さを眺めながら歩くのも、いいものですね。
小杉陣屋と小泉次大夫については、「中原街道と周辺の今昔」デジタルアーカイブに詳しく掲載されていますので、こ ちらもどうぞご覧ください。
小杉陣屋と小泉次大夫