「中原街道と武蔵小杉」4 泉沢寺・役場と商家が並ぶ神地

近郊農村と桃づくり

信用金庫の手前(左)からガソリンスタンド(経営)まで朝山家。正面は高架になった南武線(平成20年)

中原町を代表する重要産物の一つに桃があった。
「多摩川桃」 と呼ばれ、 昭和16(1941)年頃までは品質・産額ともに、神奈川県下で第1位の収穫量を占めていた。
中原町誌には明治40(1907)年、埼玉県の安行村から輸入したのが始まりであると書かれている。
「多摩川桃」は、大正の末から昭和の初めにかけて、特に今井・木月・上小田中・上丸子・苅宿・宮内等では盛んに栽培されていた。
土質が桃に適していただけでなく、肥料に人糞尿を用い(東京の大消費地から搬入していた)ため、手近く得られる便宜があったので非常に都合がよかった。生産は年々増加していった。
田は畑に、畑は桃畑に、次々と変えられていった。
中原街道沿いの農業が少しずつ変化し、近郊農業の芽生えがこの頃から見られるようになった。
しかし第二次世界大戦が始まると、桃畑は次第に潰されていった。
桃の出荷は初めの頃、組合がなかったので個人で東京の市場に持って行った。その後、出荷組合が作られ共同出荷した。
ラベルに多摩川名産「中原の桃」として出荷した。
神地共盛組合には大谷戸・新城・上小田中・神地の桃が集められ、京橋の市場へ出荷していた(一部は神田市場へ出荷した)。神地の農家はすべて桃を作っていた。
今井・木月の組合は横浜の市場へ出荷。上丸子・苅宿の組合は京橋と神田の両市場へ出荷。宮内は柿の出荷との関係から新宿方面へ出荷していた。
桃は痛みやすいので、早朝に取り入れ、午後2・3時の間に出荷所(組合)に出し、それをすぐ荷車や馬車で丸子を通って東京の京橋や神田の市場に運んでいた。翌朝の市場に間に合うよう、夜通し(夜引き)運搬した。そのうちに自動車で運搬するようになり、荷物も一度に多量に運搬ができて大変便利になった。また、桃の方が現金収入が多かった。

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