武蔵小杉の歴史
「中原街道と武蔵小杉」4 泉沢寺・役場と商家が並ぶ神地
木月堀と2軒の醤油屋
現在、小川パーキングのある場所(井戸堀と木月堀の間)の小川本家と、中原マーケットの所からガソリンスタンド横の道の所までの小川本家と朝山本家を古老は「醤油屋」と屋号で呼んでいた。
街道の左側一体の広い土地を、2軒が所有していた。
小川本家も朝山本家も一代限りの醤油屋だったが、隣りあって同じ醤油の製造・販売をしていた。醤油の製造には多量の水が必要だが、用水堀に面していた広い土地を持っている朝山・小川両家にとって有利な条件の一つであった。
井田堀より木月堀の水が綺麗で澄んでいたため、朝山家では小川家の屋敷内を掘っていたが、小川家では井戸を掘る必要がなかった。
明治時代には今の中原マーケットのある場所一帯に、朝山家の大きな醤油醸造蔵が10棟ほど立っていた。まわりが田園だったので、白壁で瓦屋根の蔵は壮大な眺めだった。
日露戦争(明治38〈1905〉年)が終わると、日本経済が混乱し不景気が訪れてきた。そのため経営していた中原銀行が倒産してしまった。
それに伴って醤油の製造を中止した。明治43(1910)年のことである。
蔵などは関東大震災の頃には、まだ残っていたという。
小川家では「ふんどん東陽」という銘柄の醤油を製造・販売していた。
関東大震災の直後から営業を始め、昭和17(1942)年頃まで製造・販売していた。
原料の小麦は、街道沿いの馬絹・有馬・土橋・大棚などの農家から仕入れて、牛車や馬車で運んでいた。
大豆はこの周辺では生産していなかったので、東京深川の雑穀問屋と取り引きしていた。
小川本家の「ふんどん東陽」は年間700 ~ 800石ほどの生産だったので利益はあまりなかったという。
その頃、小杉には「キッコー文山」、溝口に「武陽」の醤油が製造・販売されていた。