武蔵小杉の歴史
「中原街道と武蔵小杉」4 泉沢寺・役場と商家が並ぶ神地
赤レンガの毛織物工場(島田家)
旧家の島田鉄蔵が、明治30(1897)年3月に創業し、正式名称を「島田毛織物製造所」といった。明治36(1903)年には170坪の工場で従業員は50人ほどだった。そして、後藤毛織の分工場となった。大正期には東洋毛織合資会社となった。
島田毛織物工場は東京・大井の後藤毛織株式会社の援助を受け、毛布・メルトン・ネル・セル・サージなどを織っていた。
大正12(1923)年の関東大震災で建物が壊されたため閉鎖された。
草ぶきの家が多い中で、平屋ではあったが赤レンガを使い、波型をしたトタン屋根のしゃれた工場で、10棟ほどあった。
村人は「島田こうば」と呼んでいた。「島田こうば」は、毛布の生産が主で、従業員は朝8時から夕方6時過ぎまで働き、1人3・4枚できたという。日露戦争(明治37-38〈1904-05〉年)の時、軍に毛布を納めていたので景気は良かった(正式の従業員は28人で、あとは臨時の女子従業員を採用していた)。
最盛期には女子従業員だけでも50人は働いていたという。秋田・山形・新潟から働きに来ていた人が多く、地元の職人と家庭を持った人が多くいた。
社長の島田鉄蔵は、毎日、大井の後藤毛織まで人力車で通っていた。
そして月2回、製品を馬車や荷車で、丸子の渡しを通って東京に運搬していた。