武蔵小杉の歴史
「中原街道と武蔵小杉」4 泉沢寺・役場と商家が並ぶ神地
寺名主から糀屋・はた屋(松原家)
材木を取り扱うようになったのは大正末頃で、昭和初期には野川・久末・市ヶ尾の方から木を切り出し、ここで丸太を製材していた。また、八王子・栃木方面から材割料を運び、年間で5千本を超すほどの製材をしていた。
庄司木材店が住む前は、泉沢寺の寺名主といわれた松原家があった。(今は、隣りに住んでいる)先祖は、泉沢寺が烏山から移転した時、一緒に移り住んだといわれる。
このあたりは明治のはじめ頃までは、竹やぶに囲まれていた。
明治になって寺名主の役が終わると、糀屋を始めた。玄米と糀を取り換えたり、糀を売り歩くのに多くの人を使っていた。
ところが明治20年に放火され、200俵ほどの米や保管していた蔵が焼失し大損害を被った。
その後、はた屋を始めた。明治30年代には、はた織り機械が10台ほどあり、糸つむぎの女子従業員を含めて20人ほどが働いていた。
もめん糸から反物にするまで全部やっていて、製品の反物は直接、八王子に出したり近くの村々に売りさばいていた。
人を使ってやる仕事だったため思うようにいかず大正8(1919)年には閉鎖した。