「中原街道と武蔵小杉」3 小杉御殿と小杉村

春日神社・常楽寺

春日神社(昭和8年)

等々力緑地に隣接し、見事な木々が生い茂る森が目に入る。宮内の春日神社と常楽寺の森だ。この森は県指定、天然記念物になっている。
春日神社の創建の前に、宮内という地域にふれてみたい。
宮内は、多摩川の流れによって生まれた溝口デルタで、周辺に比べ2mほど高く多摩川の流れから守られるように、小高くなっている。
この地は、古墳時代に造られたといわれ、前方後円墳であるともいわれている。古墳は、この地に住む豪族が、権威の象微として造った巨大な墓で、勾玉(まがたま)なども数多く出土されている。近くの黄金塚も前方後円墳だといわれている。
宮内という地名は、神社や寺院、洞に囲まれた土地であるという所からきたものだという説と、平安時代に雨乞いのために朝延から宮内郷藤原朝臣某という人が、春日神社に奉幣使として来たところからその名を取った、とする説とがある。
「新編武蔵風土記稿」によれば後者だが、風土記稿に春日社・別当当楽寺(常楽寺)・牛頭天王社・天満宮・五郎社・神明宮・稲荷社・東樹院・高元寺などの多くの寺社が明記されているのを見ると、前者説もすてがたいと思う(明治41〈1908〉年、春日社に、牛頭天王社・天満宮・五郎社・神明宮・稲荷社は合祀された)。

常楽寺(昭和8年)

昭和42・43(1967・68)年にかけて、常楽寺本堂の解体修理が行われた際、春日神社と常楽寺に関する記述がある古文書を、宮内庁の書庫で発見した。(武蔵国稲毛本庄検注目録)
この文書は、平治元(1159)年、稲毛庄(今の宮内から、溝口・登戸方面)という荘園の農地を調べた時のものである。
それによると、当時、稲毛庄には本田、206町6段300歩(1町は約1ha、1段10a)あり、この内、お寺や神社に与えた農地17町5段を除いた189町5段に年貢をかけ、1町あたり絹2疋(1疋は布を計る単位で、約幅50cm・長さ17mくらい)、全部で379疋の年貢を、摂関家(藤原氏)が取るということ、また承安元(1171)年には、新たに新田55町6段240歩が荘園として加えられたことなどが書かれている。
特に年貢を納めなくてもよいとされた、お寺や神社の水田に「春日新宮免2町」という記述があることで、春日神社と藤原氏との関係がわかり、平治元年の前に、すでに建てられていたこともわかる。しかしこの文書だけで、宮内にある春日神社が「春日新宮」である証明にはならない。
ところが、春日神社には古くから一口の青銅鰐口(県重要文化財・神社やお寺の正面につり下げられ、綱をゆすって音を出す丸形の鉄製の道具)が伝えられていて、それに「藤原朝臣氏景(うじかげ)大夫繁森(しげもり)」という人から、武蔵立華郡(たちばなぐん)稲毛本庄春日御宮(かすがいまみや)に寄付します。応永10(1403)年と書かれ、奉納されている。
この事を結びつけると、ほぼ今の春日神社であることがわかる。
また、検注目録の中で「新御願寺(しんごがんじ)」 とあるのは、春日神社に隣接する「春日山常楽寺」の前身であると考えられる。
明治元(1868)年に神仏分離の太政官布告が出され、寺院と神社は分離され、別当、社僧などは廃止され、神社は独自に管理せざるをえなくなった(常楽寺は別当ではなくなる)。
その結果、春日神社の管理は住吉神社(中原区木月)宮司が兼務することになった。

マンガ寺のまんがの一部

マンガ寺のまんがの一部

春日神社の別当だった常楽寺は、今では「まんが寺」(土岐秀宥住職の時から)と呼ばれ、本堂襖をはじめ各部屋の襖、壁に、有名な漫画家の描いた風刺まんが6千点以上が集められている。参観者も多く、見る人々の目を楽しませてくれる。
常楽寺は、縁起によると奈良時代に聖武天皇の御願所として、行基菩薩によって開基されたと伝えられている。
本尊の聖観世音菩薩立像(像高62.5cm)は一木造りで、平安時代の末期に造られている。この他、室町時代の前期に造立された寄木造りの釈迦如来坐像(像高84.6cm)と、木造十二神将像(像高88.6 ~ 99.5cm)があり、いずれも川崎市指定の重要歴史記念物である。真言宗智山派。
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