武蔵小杉の歴史
「中原街道と武蔵小杉」3 小杉御殿と小杉村
天領名主と大砲隊(永塚家)
昭和8(1933)年頃から等々力グラウンドあたりの砂利掘りが始まり、中原街道に出る道が必要になった。杉山神社(今の小杉神社)への道も必要だということから、近くの地主(菅田家・永塚家・西明寺)が協議し土地を出し合い、昭和11(1936)年3月に、今のような車も通行できる道「小杉砂利運搬道路」が完成した(幅4m・長さ277m・西明寺約200坪・永塚家約40坪・菅田家約20坪)。
この道の左側に「天領名主」と呼ばれる永塚家がある。
昔は中原街道に面していたが等々力の砂利掘り道路の関係で、現在の奥の場所に移住した。
将軍が持っていた小杉の土地(田畑)や二ヶ領用水を治めていたことから天領名主といわれ、当時の古文書が多く保存されている。
古文書の一つ「官軍御用人足日〆帳」によれば、慶応4(1868)年3月、中原街道を備州藩大砲隊をはじめ、薩摩の兵400人余が丸子の渡しに陣を構えたり、二子の渡しに備州兵が陣を作ったりしたようすが書かれている。それによると年は17・18歳から25・26歳で、御屋敷から出発したので着のみ着のまま、親兄弟に別離を告げた者は一人もいなかったという。
宿舎は民家をあてた。そのほか小杉宿官軍に人足242人を、3月13日から3月30日の間に出した記録もある(名主が出頭を命ぜられ、官軍か幕府軍かどちらかに味方するのか、返答を求められ大変だったという)。
もともと永塚家の門は中原街道に面していて、そこから土蔵の間を通って母屋へ行く立派な構えの家であった。
小杉砂利運搬道路が完成すると宮内の方から入ったトラックが、日に約500台も砂利を積んでこの道を通り抜け、中原街道を走って行った。車が走るたびに砂ほこりがたちこめていたという。