武蔵小杉の歴史
「中原街道と武蔵小杉」3 小杉御殿と小杉村
歴史を語る長屋門(安藤家)
長屋門は、名主の安藤家へ代官の娘が嫁入りする時に、代官屋敷の裏門を運ばせ、ここに建てたと伝えられている。
長屋門の建築年代は幕末頃で、門扉の両脇に一部屋ずつ平屋(中二階)がある。 「中原街道沿いに残された歴史的景観とされ重要な建造物」として、平成24 年11 月、川崎市重要歴史記念物に指定された。
門の左側に大きな木の幹の一部分が保存されている。このような「けやき」が、安藤家の前から西明寺方向に並木のように街道をおおっていた。道の両側には用水堀があり、綺麗な水が流れていた。
しかし、電話線が引かれたり電柱が建てられたり、道幅が広げられたりなどで、木も用水もなくなってしまった。 長屋門には3 枚の高札が掲げられている。どれも「太政官布告」である。 分かりやすく文を変えて紹介すると、1つは、幕府が大政奉還をした翌年のもので国民に布告した「定」である。
1. 人たるものは、五倫(父子・君臣・夫婦・長幼・朋友)の道を正しくすべき事
1. 妻や夫をなくした者、幼くて親のない者、老いて子をなくした者、病によって不具になった者を、あわれむべき事
1. 人を殺し、家を焼き、財を盗むなどの悪業あるまじき事
慶応4 年3 月 太政官
また、次のような「定」もある。「みだりに武士も平民も本国を脱走するようなことは、かたく止められている。万一脱国の者があり、不法の所業を いたした節は、上にたつ者の落度である。脱走の者を抱え、不法の事が生まれ、厄難、災害などにたちいった場合は、その主人が法を破った罪となるべき事」
慶応4 年3 月 太政官
これら2 枚の高札の出た慶応4(1868)年3 月、安藤右衛門は綱島の名主飯田助大夫とともに江戸攻撃の官軍が二子に陣を構えている陣所に呼び出され「官軍につくか幕府につくか、態度をはっきりせよ」と、迫られている。長い間、幕府と深いつながりを持っていた人々にとっては、まさに大きな動乱の時であった。 残り1 枚の高札は、明治3(1870)のもので、「大勢で徒党を組み、上をはばからぬ所業を行えば、たとえ如何ほど道理至極でも、御取りわけなりがたい。発頭 人は申すに及ばず、同類の者まで厳重にとがめる」というものだ。 これらの高札は、西明寺参道前の街道の右横に立てられたといわれる。 幕末から維新へ、時代の大きな転換期の動揺がひしひしと伝わる思いである。 この小杉宿を通る人々や村人は、この高札を息をのんで見ていたに違いない。
この年の絵図で、御殿地は部分的な御主殿地、御殿地等を除いてほぼ全てが畑になっている。