武蔵小杉の歴史
「中原街道と武蔵小杉」1 堤防で姿を消した90軒の集落
日枝神社
古文書によれば、大同4(809)年に、延暦寺より丸子庄総鎮守として分かれ、桓武天皇の孫、僧都(そうず)・恵恒(えごう)によって山王社(山王権現・大楽院)と称し創設された。
明治2(1869)年に日枝神社と改称された。
一説には、川崎渡田の地を分霊の地に選んだが神の意にそわず、丸子に移ったのだともいわれている。以来、丸子の庄鎮守の社として続き、歴史を物語る古文書や品物が残っている。
境内に切り株として残る大杉は、非常に大きなものであったようで、木月・住吉・東京あたりでも見られたという。山王社は、丸子の庄の中心的存在であったと考えられる。
本殿は、元文5(1740)年、八代将軍吉宗の時代の建築で、関東大震災で崩れ落ち、昭和3年、幣殿・拝殿は再建された。古式豊かな年末・年始の行事や歩射祭(びしゃさい)(通称おびしゃ)は1月7日に今も伝えられている。
御神楽や丸子宮元囃子の保存会が、昭和42(1967)年に結成され年中行事で活躍している。
神社には、太田道灌の鉄扇や平重盛の小刃・古文書などが保存されている。
尚、徳川幕府より20石の朱印状が与えられている。