「中原街道と武蔵小杉」1 堤防で姿を消した90軒の集落

新丸子三業地

新丸子三業地として栄えていた料亭通りと看板。
撮影の頃はまだ3軒ほどあった(昭和50年)

へちま風呂「丸子園」の開業は「新丸子三業地」のきっかけをつくった。
料亭も次第に増え、芸妓も50 人を超えるようになった。
昭和20(1945)年4 月15 日、5 月24 日の大空襲により新丸子三業地一帯は4・5 軒を残すのみで全焼してしまった。
戦後、一時営業を中断していたが昭和20 年12 月「花本」が開店した。
不法建築が多い中で、許可不明のまま喫茶店として温泉マーク♨を付けて営業していた。
昭和23(1948)年、許可がおり昭和25~ 36(1950 ~ 1961)年頃まで繁盛した。
最盛期には「花本」「菊家」「柳家」「北川」「一直」等、25 軒くらいにまで増加した。
芸妓は100 人を数えた。

丸子芸妓・芸妓組合のあった丸子芸能会館(昭和49年)

新丸子駅前通りにあった呉服店。
電話の「中原三番」の文字が見られる(昭和51年)

綱島街道沿いに残っていた新丸子三業地の看板(新丸子東1丁目)(昭和51年)

しかし、昭和51(1976)年には「一直」「丸子荘」「伏見」の3軒のみとなり、芸妓も10 人ほどに減少し、次第に寂れ料亭は姿を消していった。その後、駐車場や住宅、マンション等に変わってしまい、昔の面影は全くない。
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