「中原街道と武蔵小杉」1 堤防で姿を消した90軒の集落
中原街道は「こやし街道」
中原街道は別名「こやし街道」とも呼ばれていた。
現在では農業でなくても植物など育てるのに化学肥料を使っているが、昭和30年代までの肥料の主流は下肥だった。その他、しめかす・醤油かす・酒かすなどが使われていた。
丸子、小杉をはじめ、下小田中、千年、遠くは、野川、馬絹一帯の農家は江戸時代からこの下肥を獲得するために江戸(東京)の中心部の芝、愛宕下(東京タワーの近く)あたりまで出かけていた。
暗いうちに大八車に肥おけを4 ~ 5 本積み、中原街道を通って江戸へ行っていた。
農産物を持参したりお金や米などと交換で、商家や住宅等の汲み取りをしていた。
これは明治・大正に入っても同じだった。しかし昭和に入ると、逆に汲み取り料を貰うようになった。
街道沿線の人たちは、早朝からの大八車のガタゴトの音で目覚めたという。
これは明治・大正に入っても同じだった。しかし昭和に入ると、逆に汲み取り料を貰うようになった。
街道沿線の人たちは、早朝からの大八車のガタゴトの音で目覚めたという。
4 ~ 5 時間かけて、五反田・三田・愛宕下などの馴染み客の家を回り(昼頃に到着)、肥おけに下肥を汲み取り、夕方、午後5 ~ 6 時頃に戻った。
復路は肥おけが満杯のため車を引くだけでも大変なのに、上り坂ではもっと大変で1 人では手に負えなかった。
当時、東京の愛宕下までの道は急な坂が多く、「立ちん坊」と呼ばれる人がいて、1 銭渡すと坂の上まで押してくれた。
また川崎でも千年の蟻山坂は、多摩丘陵へ上る難所の一つだった。
家族が坂の下まで迎えに出るか、押し上げるため仲間同士で後押ししていた。
ある時は人糞がこぼれ、大変な目に会うこともあったという。
昭和に入ると次第に大八車から牛車に変わり、回る家も増加していった。
農作物は天候と肥料が大事な要件なので、良い下肥を大量に獲得するために農民たちは必死だった。農民の中には下肥を一目見ただけで善し悪しがわかったという。漁業の家や商人の家は、食べ物が良く、勤め人は悪いなど、各家の汲み取りで生活(経済)状態が推測できたと古老が話していた。
このような東京方面からの下肥運びは、戦後(昭和20 年終戦)まで続いていた。
中原街道(小杉十字路)の牛馬車通行調べ(昭和7年の1日)
「中原町誌」(昭和8年9月発行)