新・小杉散歩
2017.12.11
「小杉3丁目の今昔」ワークショップが開催されました
12月2日(土)、Kosugi 3rd Avenue LABOにて、郷土史研究家・羽田猛先生を講師に迎えたワークショップが開催されました。
羽田先生は、川崎市公立学校長を定年退職後、川崎市内の郷土史の研究を開始。以来、写真撮影と取材を重ね、『中原街道と周辺の今昔』をはじめとする、中原・武蔵小杉地区にまつわる数々の書籍を上梓されています。今回は「小杉3丁目の今昔」というテーマのもと、武蔵小杉の街の変遷について、語っていただきました。
約50分の講義では、江戸時代から現在までの街の発展、街道と鉄道、街の中心部の移り変わり(御殿町・陣屋町から駅前へ)、小杉3丁目の今後など、当時の写真資料とともに解説。ほかではなかなか伺い知ることのできない貴重なエピソードの数々に、参加された皆さんは、とても興味深い表情で頷かれていました。
この日の講義の内容は、近日当サイトにて動画で配信いたしますが、今回はダイジェストとして、小杉3丁目から程近い「武蔵小杉駅周辺の成り立ち」に関わる部分を要約し、ご報告いたします。
ひと昔前までは、小杉といえば、いまでいう中原小学校、陣屋町、御殿町のあたりを指していました。小杉十字路周辺には、役場や病院、警察署、郵便局、食堂、風呂屋、劇場など、あらゆるものが集まっていました。
昭和2年に南武鉄道が開通し、中原区内では平間・武蔵中丸子、向河原、グラウンド前、武蔵小杉、武蔵中原、武蔵新城の7駅が設けられました。グラウンド前駅は現在の武蔵小杉駅。この向こう側に、第一生命のグラウンドがあったからです。そして当時の武蔵小杉駅は現在の区役所近くにありました。
当時の南武線といえば、砂利鉄道と呼ばれる貨物の鉄道です。人の栄えている中原街道の方に建てようとしたら、煙やほこりがあがることから、住民からの反対があり、住宅地からは遠のけられたのです。この頃の(現)武蔵小杉の駅周辺は、田んぼや畑ばかりの湿地で、何もありませんでした。
また当時、南武線はあまり頼りになりませんでした。もともと貨物線なので、人を運ぼうとは思っていないからです。
これに対して東急電鉄は、商売を考えています。東京横浜電鉄(現在の東急電鉄)は、大正15年に多摩川を渡り、東神奈川まで開通させます。この頃はまだ武蔵小杉駅はなく、新丸子と元住吉駅がありました。
東急の田園都市会社により、土地の分譲や宅地開発が進み、広大な土地を大学に寄付し、日本医科大や法政大学の予科を誘致しました。学生が集まり、人が集まる。すると、宿が必要になる、食べ物屋も必要になる。そういうことが色々でてきて繁盛していきました。
昭和に入ると、これまで海沿いが中心だった工場地帯が、南武線沿いの内陸に進出してきました。はじめは軍事工場がたくさんできた。そして東京機械、不二越精機、大同製鋼、NEC、富士通などの大企業。ひとつの工場に1,000人くらいの従業員がいるが、皆、新丸子の駅や元住吉から歩く必要がありました。そこで各工場から駅を作る要望があり、昭和14年に東急東横線の「工業都市駅」というものができた。昭和17年の地図によれば、新丸子、工業都市、元住吉…とあります。
しかし、昭和28年には、工業都市駅は廃止されます。あまりにも近くに駅が続いているからです。工業都市駅を廃止して、武蔵小杉駅を充実させようとしたのです。
昭和30年になると、個人の住宅、社宅などが急増し、グラウンドや農地が消えていきます。中原街道の宿場で、昔から政治・経済の中心だった小杉(御殿町・陣屋町)から、商業地が駅前に移り、商店街が形成されます。中原郵便局が昭和16年に、中原警察署が昭和18年に小杉3丁目に移転し、消防署、電話局、市民館、図書館、総合病院などが次々と開設され、その後、市役所中原支所(区役所)ができると、中原区の行政の中心は、完全に小杉3丁目に移り変わっていきました。
このように、武蔵小杉の街の発達は、鉄道、特に東横線の影響がとても大きいのです。農村地帯に鉄道が敷かれて、街の中心部が変わる。そして平成になると駅周辺の再開発が次々と行われ、また新しい街づくりが進められています。タワーマンションの建設ラッシュが続き、人口が急増、教室が足りない学校が増加し、市は対応に追われています。
現在では、住んでみたい街のランキングの上位にあがるほど、人気のある街に変貌しました。
この日の講義の詳細につきましては、後日動画で配信予定です。
また、東横線、南武線の鉄道についてのお話は、「中原街道と周辺の今昔」デジタルアーカイブの下記の項でも触れられていますので、こちらも併せてお楽しみください。