新・小杉散歩
2020.08.07
多摩川スピードウェイ跡を訪ねて
東急線の鉄橋近くの多摩川土手に、長く続くコンクリート製のスタンドがあります。電車の窓からも見えるそのスタンドは、付近に住んでいなくても見た覚えのある方は多いのではないでしょうか。
実はこのスタンドはサーキットのメインスタンドだったそうです。
この場所にあった「多摩川スピードウェイ」は、日本で初めての常設サーキットでした。その全長1200メートルのオーバルコースが完成したのは80年以上も前の1936年。日本の自動車産業がまだ黎明期だったころのことです。
同年6月7日に報知新聞社主催で行われた多摩川スピードウェイで最初のレース「全日本自動車競走大會」には、3
万人の観衆が集まったとの記録があるそうです。
その記念すべき第1回レースで、100周の優勝カップレースを制したのはインヴィクタ。国産小型車部門では日産の「ダットサン」が優勝するだろうという下馬評を覆し、オオタ自動車工業の「オオタ号」の圧勝でした。
このレースには、当時「アート商会」代表であった本田宗一郎が自製のレーシングカー・ハママツ号でドライバーとして参戦し、レースでは驚異的なスピードを出したのだとか。ただ、他車を追い越す際に両車が同方向に避けたため、互いの進路が交錯して衝突して弟の弁二郎とともに車外に放り出されるという事故でリタイアとなった、と宗一郎氏が「多摩川スピードウェイの会」の方に話されたそうです。日刊工業新聞の記事には、このときの悔しさが鈴鹿サーキットを建設し、F1に挑戦する情熱に火をつけた、ともあります。
またGAZOOのHPの記事によると、このレースで、自社の車が「オオタ号」に敗退するという結果に怒った日産コンツェルンの総帥・鮎川義介が日産自動車技術陣に対して次回の必勝を命じ、その命によって日産自動車はエンジンを飛躍的に進化させたという話もあるとか。同記事には後にフェアレディZの父として名を知られることになる片山豊が、この第一回レースの広報・宣伝担当として運営に関わったとも書かれていました。
この後、日本の自動車産業が世界に誇るものになっていく過程で大きな功績を残す企業や人物が多く関わったのですから、このサーキットでのレースがいかに日本の自動車産業に影響を及ぼしたのかが伺えます。
「全日本自動車競走大會」は第2回以降も大いに盛り上がり、また、同サーキットではオートバイのレースも多く開催されたそうです。
しかしそれは長くは続きませんでした。1938年の第4回レース後に日中戦争が激化し、それ以降レースは開催不可能になったたのです。その後、戦後にはわずかに復活したようですが、それもまもなく周辺地域の人口増加により騒音の問題などが持ち上がり、1950年代初頭にはサーキットは廃止になったそうです。
現在、サーキットとしての面影を残すものはスタンドだけになりましたが、2016年に「多摩川スピードウェイの会」から川崎市に寄贈されたサーキット開設80周年を記念するプレートがスタンドに設置されています。
この「多摩川スピードウェイの会」は、「多摩川スピードウェイの跡地保存と日本のモータースポーツ黎明期の歴史的意義の研究・情報発信を目的として、有志により 2014 年に発足した任意団体」だということで、現在も精力的に展示や講演を行い、戦前の日本のモータースポーツ事情とともに多摩川スピードウェイでのレース参戦者の功績を後世に語り継いでいるとのことです。展示や講演の情報は同会Facebookページで得ることができます。
「多摩川スピードウェイ」が廃止された以降、この場所は2011年まで日本ハムの練習グラウンドとして使用されました。現在は「川崎市多摩川丸子橋硬式野球場」として、川崎市の多くの野球チームから利用されています。
当時の面影については、先にご紹介した「多摩川スピードウェイの会」の方が、残されている映像と今の様子をオーバーラップさせて紹介するという魅力的な動画を制作、公開されています。
多摩川を散歩される際に、スタンドに座って動画と目の前の風景を見比べ、先人たちの熱を感じながら休憩されてみてはいかがでしょうか。