新・小杉散歩
2020.05.15
大切な人を守る心がつくった「カギの道」
平塚方面から中原街道を行くと小杉十字路から西明寺参道入り口に向かう途中でいきなり左に90度曲がるところがあります。そこを曲がり、ほんの40mほど行くと今度は左に90度曲がっています。この、いわゆるクランク状の道の突き当たりの角には「徳川将軍小杉御殿跡」と書かれた石碑が。
かつてこの辺りには、江戸の徳川将軍が利用した「小杉御殿」がありました。
小杉御殿は、中原街道を通って江戸に向かう大名たちの宿舎として、1608(慶長13)年に建てられたのが始まりといわれています。
その後、1640(寛永17)年に二代目将軍徳川秀忠によって、約1万2千坪(約4万平方メートル)もの敷地を使い、御主殿、表御門、御殿番屋敷、御蔵などの建物を備えたものとして改築されました。その広大な御殿は、家康・秀忠・家光・家綱などが民情視察を兼ねた「鷹狩り」の休憩所として度々利用されたと、19世紀前半に編纂された江戸幕府の公式史書「徳川実紀」(家康から十代目将軍家治までの歴代将軍の政蹟の記録)に書かれているそうです。(「中原街道と周辺の今昔」デジタルアーカイブ「小杉御殿とカギの道」より)
当時の見取り図が小杉村名主である安藤家に残されていて、その図は御殿跡の石碑の奥に設置された案内板に掲示されています。
少し大雑把ですが、小杉御殿見取絵図から作成された御殿の図と現在の地図を重ねてみました。こうしてみるとその広大さがわかります。青色で示したのが「カギの道」と呼ばれる部分です。
なぜこんなことに? と疑問に思う「カギの道」は、この小杉御殿に休む貴人たちを守るために、わざと道幅が狭く見通しが悪いように作られたそうです。
そこで、試しに平塚方面から御殿に攻め入るつもりで歩き、写真を撮ってみました。
確かに、角をふたつ曲がり切るまで御殿の様子はほとんどわかりません。これでは攻め入ろうにもとても困難だっただろうと感じます。
逆に、御殿を守る側にまわると、今度は門から少しだけ右にずれたところに見張りを潜ませておけば、敵が侵入して来ようとすればすぐに見えるのです。
このような道は、場所により「桝型(形)」「鍵の手(かぎのて/かねんて)」など呼び方に違いはあるものの、日本各所にあり、今も残る場所も少なくないようです。その多くは1、2回ほぼ直角に曲がるものですが、東海道・掛川の七曲り、岡崎の二十七曲りなど、特に城下町には複雑なものが残っているそうです。
同じ目的で作られたものを観るために来訪してみるのも面白いかもしれません。
小杉御殿は、東海道が整備されて中原街道の重要性が低下したことによってその存在意義が薄れ、廃されることになりました。
『川崎 新中原誌』(新中原誌刊行会、1977年)には、「小杉御殿は、1655(明暦1)年、その一部を品川の東海寺に与え、1660年(万治3)年には、江戸上野の弘文院に与えて姿を消した。土地の約3分の1は御殿番井出七郎左衛門にたまわった。」と記載されています。
御殿が廃された後、建立された時代はわからないということですが、御主殿・陣屋・御蔵があった場所にそれぞれ稲荷が建立されました。それらは今も残っていますが、残念ながら御殿の遺構はなにも残っておらず、当時が偲ばれるものはカギの道だけになってしまいました。
現在、川崎市では、このカギの道を解消すべく、西明寺参道入り口から小杉十字路を直進する道路の新設工事を行っていますが、もともとある「カギの道」は地域の生活道路として、そのままの形で残されることになっているそうです。
やはり、御殿の面影を残したいと思う人は多いということなのではないでしょうか
かつて極端に曲げて作られた道も、今直線で作られようとしている道も、目的は大切な人を守るため。形は変われど大切な人を守りたいという気持ちはいつの時代も同じなんですね。
この直線の道の完成予定は2025年とのこと。
江戸時代と現代の人の心が交差する場所になるわけですね。いまから待ち遠しく思います。
小杉御殿とカギの道については、「中原街道と周辺の今昔」デジタルアーカイブに詳しく掲載されていますので、こちらもどうぞご覧ください。