武蔵小杉の歴史
「中原街道と武蔵小杉」2 変貌の激しい武蔵小杉
南武線と東急東横線
両社の話し合いが決着し、東横の高架橋が完成するまでの7 カ月間は、両会社の手信号の係が出ていた。
南武線は大正11(1922)年8 月、工事認可を受けていたが土地買収がうまくいかず、もたついていた。
東横電鉄は大正13(1924)年11 月8 日に、工事認可を取った後、すぐに工事に着手し、大正15(1926)年2 月までに、丸子多摩川―神奈川間を突貫工事で完成させた(当時の東横電鉄の専務は、五島慶太だった)。
あわてた南武鉄道は「認可は南武が先だ。東横は高架橋を造り、上を走るべきだ」と譲らず、両社は対立した。
結局、仲介に鉄道省等が入り話し合いの結果、建設費用は東京横浜電鉄・南武鉄道・鉄道省の3 社が分担し、高架橋は東横電鉄が建設することで決着した。
後日談になるが、第二次世界大戦中の昭和19(1944)年2 月、五島慶太は運輸通信大臣になった。その時、南部鉄道は国有化され国鉄南武線となった。