武蔵小杉の歴史
「中原街道と武蔵小杉」2 変貌の激しい武蔵小杉
東横線と中原の町
昭和4(1929)年7 月、日吉台の東横・目蒲電鉄の持っている24万㎡の土地を慶応大学予科に譲った。
昭和6(1931)年3 月には新丸子駅近くの3 万3 千㎡の土地を日本医科大学予科に、昭和10(1935)年には元住吉駅近くの3 万㎡の土地を法政大学に寄付し学生を集めた。このことは、中原の町が学生 の町として発展するキッカケとなった。
通勤客を集めるために、昭和3・4(1928・29)年にかけて新丸子に16 万㎡、元住吉に8 万㎡の住宅地を分譲した。更に昭和6(1931)年には、新丸子に38 万㎡の宅地を分譲し、購入者には1 年 間の無料パスを発行した。
また昭和10(1935)年頃から、工業地域が南武鉄道沿線の内陸へ急速に拡大していった。(昭和2 年南武鉄道開通)
特に昭和15(1940)年頃までに、向河原駅から東横線沿いの地域に大企業が進出した。
昭和11(1936)年・日本電気玉川工場、昭和13(1938)年・富士通信機製造、昭和14(1939)年・東京無線器材製造、荏原製作所、昭和16(1941)年・大同製鋼、不二越精械、沖電線など。
各工場の従業員の交通の便をはかるため、東横線「工業都市」駅が府中街道上に完成した。昭和14(1939)年12 月11日のことである。
これにより、元住吉・新丸子駅で下車していた工場通勤者、約1 万5 千人は多くの便益を受けた。
また中原警察署をはじめ、官公庁の出先機関も次第に駅付近に集合し、商店街も形成されるようになった。
このことは、中原の中心だった小杉十字路付近が、次第にさびれ、武蔵小杉駅付近へと変わっていく結果となった。