「中原街道と武蔵小杉」1 堤防で姿を消した90軒の集落

高収入の砂利掘り人夫

多摩川砂利は良質なため、江戸時代から採掘されていた。砂利堀りは土地の人々だけでなく各地から出稼ぎに来ていた。
砂利堀り人夫は、近くの風呂屋や質屋をよく利用していたという。
この砂利堀りの仕事は、寒い冬場は特に辛いものだったが収入は良かった。
「白い御飯が腹いっぱい食べたい」、これは当時の人々の切実な願いだった。そんな中で、多摩川の砂利人夫は昼食にも白い御飯を食べていた。土地の人々は、人夫のくせにと半ば軽べつしながらも半面、羨ましがっていた。
一般の人々が白い御飯を食べられるのは、1 日と15日の月2 回くらいだった。
砂利掘りは、ほとんど腰まで水の中に浸って、スコップに網を張った「じょれん」という道具で、川底の砂利をすくった。
水中で砂をふるい落としてから船に積む。この船べりまで持ちあげるのが、とても重く力のいる仕事だった。
水につかりっぱなしの仕事だったので、夏でも体は冷えきってしまうほどで、冬の辛さは、言葉では言い表わせないほど辛く大変なものだった。
夏から秋にかけての増水期に、上流から大量の砂利が押し流されてきて堆積するので、寒い冬場の仕事が最盛期だ。採掘人夫は農閑期の小作人が多かった。
砂利は底の浅い砂利船に積まれ多摩川を下り、六郷の「原川岸(大田区原町)」で海船に積み替えられ、東京・横浜方面に運ばれた。業者は、ほとんどが竹下組と赤門森の2 業者で、他に若松屋があった。
砂利掘りは、江戸時代から行われていたが、大がかりになったのは明治の末頃からである。明治40(1907)年に玉川電鉄、大正14(1925)年に東京横浜電鉄、さらに南武鉄道と、鉄道会社が砂利の採取と輸送に力を入れるようになった。
南武線は、大正9(1920)年に「多摩川砂利鉄道」として許可を受け、昭和2(1927)年に南武鉄道(南武線)として、川崎―登戸間(17.2km)および、矢向―川崎河岸間(1.7km)に開通し、電車運転を開始した。
大正12(1923)年の関東大震災は、東京・横浜などに大きな被害を与えた。この復旧のため砂利の需要が大きくなり、多摩川の砂利採取に拍車をかけた。
大資本による採掘の結果、多摩川の河原は無制限に掘られ、河床は低下し堤防にも影響を与えた。洪水の恐れや、用水取水口の破損を招くようにもなってきた。
二子・宮内・丸子・平間・古市場にかけてかなりの盗掘が続き、地面から岩が顔を出すほどになった。
昭和9(1934)年、多摩川の砂利採取は、全面的に禁止された。当時、両岸には大小200 近い砂利業者があり、それによって数千人が生計を立てていた。

丸子渡し場付近の砂利盗掘の跡(昭和8年)。裏土を1 〜1.5m掻き除いて砂利を盗掘された跡

多摩川改修工事で砂利を運ぶために使われた蒸気機関車(大正10年)

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