武蔵小杉の歴史
「中原街道と武蔵小杉」1 堤防で姿を消した90軒の集落
青木根の集落
東急東横線の鉄橋の下あたりに伊勢神社があり、20 段ほどの石段を上ると松の木が生えていたという。上るとバチがあたるといわれ、子ども達は近よらなかった。集落のはずれに天神社があった。神社の裏は林で、その先に石の護岩があり、真竹が生えていた。真竹は松原通りまで続き、川岸が大水で崩れないように守られていた。
ここには農家のほか、多摩川で砂利採りする人や、底の浅い川船を作る船大工、舟釘を作る鍛冶屋などが住み、多摩川とのつながりの深い集落をつくっていた。
大正9(1920)年8 月、青木根集落の人達は自分が生まれ育ったこの土地と別れなければならない最後の時が来た。
家の下にコロを敷いて、引っ張ったり、こわして運んだりして、川畔から移動していった。一昼夜かけて、家を引いて行った人もいた。
ほとんどの人々は、水田の広がる今の上丸子天神町に移り住んだ。住民は国からの移転補償を受け、文句も言わずに住みなれた自分の村から離れた。
人々の中には大水から逃れることの喜びの半面、自分達だけが工事の犠牲にならなければならない悔しさ、これからの生活の不安、先祖からの土地を離れる悲しみ、さびしさなどが入り混じって、複雑なものだった。
道も、桃も、木も、石碑も、家も、全て消えた。荷車に400 箱の桃を積み、20台の車で神田に出荷もしたこの「青木根」の集落の歴史は終わった。
渡船場のあった「松原通り」の集落も、こうした「丸子の渡し場(渡船場)」をめぐる歴史のあったことなど想像できない。