武蔵小杉の歴史
「中原街道と武蔵小杉」1 堤防で姿を消した90軒の集落
丸子橋
工事費用は50数万円、長さ400m、幅11m。2 年の歳月を費やして、ついに「丸子橋」が完成した。
渡り初めの列が川崎側から東京側へと動き出した。神主に続いて親子三代夫婦、そしてこの橋を造るために力を尽くした人々の列が続いた。この中に中原町長の安藤安もいた。
丸子に橋を造る願いは、明治17(1884)年に始まる。安藤久重(小杉)・朝山信平(神地)・原文次郎(小杉)の3 人から第 1 回の出願があったが許可にならなかった。
明治34(1901)年秋、宮本正證(宮内)・小山金太郎(宮内)・島田太郎吉(神地)が第2 回の出願をしたが、却下され た。
第3 回の架橋運動は、安藤安(小杉)・朝山信平(神地)、原伝蔵(小杉)を中心に大正9(1920)年から始まった。 大正11(1922)年には、大竹静忠(丸子)も参加し私財を投じた。
運動を盛り上げるため、渡し場の近くに大きな看板を立てたり、宣伝ビラを数万枚印刷し渡船利用者に配った。また大 楽院や泉沢寺で何回も会合を開いた。
安藤安は中原町長になると、東京府の大崎・平塚・池上・馬込・調布の各町村長や、川崎の橘・日吉・宮前(みやざき)などの村長と手を組んで、神奈川県や東京府、国に何度も陳情を繰り返した。
こうした長期間にわたる努力がやっと実り、ついに丸子橋が造られることになった。昭和7(1932)年10 月5 日に起 工式が行われた。第1 回の出願から50年後にやっと完成したのだ。
〈請負人〉
・橋脚 銭高組
・上部構造 横川橋梁会社
・スラブ及び上面舗装 竹下組