歴史資料室

「中原街道と周辺の今昔」デジタルアーカイブ

公園施設の造成

中原小より等々力を見る(テニスコート・プール方向)。正面の家は管理人の菊地家(昭和25年)

中原小より等々力を見る(テニスコート・プール方向)。正面の家は管理人の菊地家(昭和25年)

昭和30年頃から、この水郷地域を川崎市に寄付する話が出て、市でも一応OKしたが市議会で貰っても困ると異議が出され、そのままになっていたという。川崎市がここを開発してくれることを条件として提供の申し入れであったため、当時の川崎市としては、開発して公園を造ることより人口増によって学校・住宅等の建築で、手いっぱいだったため、困ったそうだ。市からの回答がはっきりしないため、東横電鉄では2号池を埋め立て自社用グラウンドを整地し「新丸子東急グラウンド」を誕生させた。

野球場、競輪場なども考えられたが、農地法の関係で不可能だったという。当時、東横電鉄でも、もてあましていたようだ。

その後、東急は、グラウンドの一部分を残して全部、県に売却した。

県では、横浜港の埋立地の所有者(矢野建設の矢野茂平)と、土地交換のために買い入れを行った。

川崎市が、この等々力一帯を積極的に買収しはじめたのは昭和32(1957)年からである。

昭和33(1958)年、「川崎市都市計画」で緑地として決定し、昭和37(1962)年から公園施設の造成に着手。緑地一帯の整備を検討しはじめた。

しかし売買等をはじめ、いろいろな問題が発生し時間がかかり、長い年月が経過するだけだった。

各会社のグラウンドができたのもこの頃である。

平成5(1993)年になって、ようやく新丸子東急グラウンド全体(約4ha)の問題等が解決し、川崎市が緑地公園等の整備ができるようになった。