歴史資料室

「中原街道と周辺の今昔」デジタルアーカイブ

東横池の誕生

砂利採掘の跡地に水が溜って池のようになったのを、多くの人々は東横電鉄の所有だったので「東横池」と呼んでいた。

この池に魚を放して、釣り堀にしようと、昭和12(1937)年、菊地金治郎(東横電鉄)、有馬茂(有馬興業)、倉林亮(多聞興業)の三者が相談し、5万匹のコイの稚魚を5号池に放流した。県の水産試験所での水質検査の結果は良好だったので放流することにしたという。

続いて昭和15(1940)年にも稚魚5万匹、ヘラブナ20kgほどを放流した。

放流した稚魚は立派に成長したので、他の池にも広げてみた。

まだ周辺では砂利採掘が行われていた(東横電鉄は昭和15年、多聞興業は昭和18年、有馬興業は昭和19年に採掘が終った)。池の広さは約8万4千坪にもおよんだ。

砂利採掘の役目を終えた跡地には、多摩川の伏流水が湧き出したり、雨水が溜まったりして7つの池が出現した。