歴史資料室

「中原街道と周辺の今昔」デジタルアーカイブ

砂利掘りが始まる

等々力は、もともと多摩川の流路で耕地はうすく、下には4・5mの砂利層があり干害の多い畑地で、昭和7・8年頃までは、桑畑・さつまいも・ごぼう・なす・トマトなどの野菜畑であった。

ここに砂利掘りの神様といわれていた東京二子玉川の西野伊勢松(西野砂利興業KK)が着目し、土地の買収を始めたのが開発の最初である(等々力は東京より明治45『1912』年4月、中原村に編入された地域である。地主は東京に住んでいる人が多かった)。

しかし資金面の関係もあって、東京横浜電鉄KK(東横電鉄)の砂利課(大正14『1925』年7月に砂利採取販売業の許可取得)に話を持ちこんだ。

東横電鉄は、等々力区域内30カ所ほどをボーリングして地質調査をした。

結果は砂利層の宝庫であることを確認、早速用地の買収を始め採掘の準備に取りかかった。昭和9(1934)年12月のことである。

翌10(1935)年3月26日には、東横電鉄としての最初の砂利採取事業が、ここ等々力地内で行われた。

この事業は大規模な機械設備により土地を掘りおこし、その下の砂利を採掘したもので予想外の利益があり好成績であった。また、この採掘計画に同じ頃、着目していた人物がいた。

等々力地内に昭和7(1932)年から住み、牧場経営をしていた有馬茂と丸子の青木昌平である。

有馬茂は昭和7年11月からここに定住(無人だったこの地に番小屋の番人として木村元次郎がいた。そこに、有馬は転入し住むようになった)。翌8(1933)年3月には、東京の矢口から乳牛18頭を移住させ有馬牧場を開き経営していた。周りはさつまいも畑と松林だった。

かつて砂利採取の仕事をしていたことから、この採掘事業に加わるようになった。

一緒にやった青木は、途中で参加を取りやめてしまった。理由は不明だという。

採掘が行われた初めの頃の地価は、坪(3.3m2)2円50銭であった。次第に値上がりし、4円、4円50銭、5円。最終の昭和19(1944)年には坪20円ほどになった。

この等々力(堤外の区域で12万坪の中)で砂利のあると思われる部分を約8万坪と予想し、昭和10(1935)年8月、買収、採掘について東京横浜電鉄KK・西野砂利興業・有馬興業の三者で協定、契約が行われた。

協定、契約によれば、

① 東横電鉄が半分ほど持つ、それによって
② 乱れた価格を統一する
③ 東横電鉄が販売面を一手に引き受ける

というものであった。それによって、買収した砂利採取場所と広さは、次の通りであった。(表1)

[表1]、[図1]