歴史資料室

「中原街道と周辺の今昔」デジタルアーカイブ

小杉宿(駅)と供養塔(鈴木家)

街道の右側に小杉行きバス停留所がある。スーパーからライスショップに変わった「つけぎや」がある。その左側の電柱とバス停の標識の間に、供養塔が立っている。

この供養塔をよく見ると、他の供養塔にはないものが発見できる。

「武州橘樹郡稲毛領小杉駅  願主  鈴木戸右衛門  妻  八千代」

「天下泰平  国土安穏」

更に台座をよく見ると、道標になっていて、「東江戸  西中原」とある。

「つけぎや」の鈴木家は20代ほど続いている旧家で、江戸時代には旅籠屋(はたごや)として創業した。初代から15代まで続いたが、やがて旅籠屋としては生計が成り立たなくなり、附木屋(つけぎや)に商売替えをした。

附木とは、杉・松・桧などの薄い木片の一端に硫黄を塗布したもので、火口から火を移すとき、とても便利なものだった。しかしその後、マッチの普及で使われなくなった。

明治40年頃まで製造していたが、その後、よろず屋を始めた。

8代目の戸右衛門がお寺参りをした記念に、この供養塔を建てたようだ。

小杉が宿場と決められたのは、御殿がなくなって間もなくの寛文11(1671)年の事である。

初めは大名行列のため、馬70頭、人足250人を用意したが、江戸の中頃からは毎日、馬1頭、人足2人というように寂れてしまった。

戸右衛門が、ここに供養塔を建てたのは、弘化5(1848)年で丁度、幕末にあたる。

その頃、日本はヨーロッパ諸国、アメリカなどから開港を求められ、黒船騒ぎで大きく揺れていた。

外国船打払令が下った頃、嘉永2(1849)年、西明寺で普通1回しか焚かない悪魔除けの「護摩」を3回も焚いた記録がある。

当時の不安な世の中のようすが、小杉にも伝わってきていた。

旅で見聞を広めた戸右衛門は、街道の発展と人々の幸せを願って、駅(宿)と刻んで建てたのだろう。

この護摩札は原家(大陣京)に保存されている。右側が嘉永2(1849)年10月30日、左側が嘉永2年4月15日のものである。護摩札は普通正月に焚くものだが、この年には1月・4月・10月と3回焚いている。

この護摩札は原家(大陣京)に保存されている。右側が嘉永2(1849)年10月30日、左側が嘉永2年4月15日のものである。護摩札は普通正月に焚くものだが、この年には1月・4月・10月と3回焚いている。