歴史資料室

「中原街道と周辺の今昔」デジタルアーカイブ

歴史を語る長屋門(安藤家)

500年の歴史を持つ旧名主の安藤家、長屋門(昭和50年)

500年の歴史を持つ旧名主の安藤家、長屋門(昭和50年)

小杉陣屋町の安藤家は、戦国時代、小田原の北条氏に仕えた安藤因幡守につながる旧家である。

北条氏が豊臣秀吉に敗れる(天正18<1590>年)と、安藤家の祖先は農民となり小杉に定住し代々名主を務めていた。

寛文11(1671)年、小杉宿開設時には問屋を務めている。それだけに数々の古文書・古地図等が同家には保存されている。

入り口の長屋門は江戸中期、名主であった安藤家へ代官の娘が嫁入りした時に、江戸の代官屋敷の裏門を運ばせ、ここに建てたものだと伝えられている。

門の左側に大きな木の幹の一部分が保存されている。このような「けやき」が、安藤家の前から西明寺方向に並木のように街道をおおっていた。道の両側には用水堀があり、綺麗な水が流れていた。

しかし、電話線が引かれたり電柱が建てられたり、道幅が広げられたりなどで、木も用水もなくなってしまった。

長屋門には3枚の高札が掲げられている。どれも「太政官布告」である。

分かりやすく文を変えて紹介すると、1つは、幕府が大政奉還をした翌年のもので国民に布告した「定」である。

1.人たるものは、五倫(父子・君臣・夫婦・長幼・朋友)の道を正しくすべき事。

1.妻や夫をなくした者、幼くて親のない者、老いて子をなくした者、病によって不具になった者を、あわれむべき事

1.人を殺し、家を焼き、財を盗むなどの悪業あるまじき事

慶応4年3月 太政官

安藤家に残る高札の一つ。長屋門の内側に掲示されている

安藤家に残る高札の一つ。長屋門の内側に掲示されている

また、次のような「定」もある。

「みだりに武士も平民も本国を脱走するようなことは、かたく止められている。万一脱国の者があり、不法の所業をいたした節は、上にたつ者の落ち度である。脱走の者を抱え、不法の事が生まれ、厄難、災害などにたちいった場合は、その主人が法を破った罪となるべき事」

慶応4年3月 太政官

これら2枚の高札の出た慶応4(1868)年3月、安藤右衛門は綱島の名主飯田助大夫とともに江戸攻撃の官軍が二子に陣を構えている陣所に呼び出され「官軍につくか幕府につくか、態度をはっきりせよ」と、迫られている。

長い間、幕府と深いつながりを持っていた人々にとっては、まさに大きな動乱の時であった。

残り1枚の高札は、明治3(1870)年のもので、「大勢で徒党を組み、上をはばからぬ所業を行えば、たとえ如何ほど道理至極でも、御取りわけなりがたい。発頭人は申すに及ばず、同類の者まで厳重にとがめる」

これらの高札は、西明寺参道前の街道の右横に立てられたといわれる。

幕末から維新へ、時代の大きな転換期の動揺がひしひしと伝わる思いである。

この小杉宿を通る人々や村人は、この高札を息をのんで見ていたに違いない。

宝暦12年の地割図。土地の測量が行われ田畑の収量を区別して書かれた土地利用図(安藤家蔵)

宝暦12年の地割図。土地の測量が行われ田畑の収量を区別して書かれた土地利用図(安藤家蔵)

小杉村名主、安藤家の屋敷と建物(明治初期に作画)

小杉村名主、安藤家の屋敷と建物(明治初期に作画)