歴史資料室

「中原街道と周辺の今昔」デジタルアーカイブ

丸子橋

丸子橋渡り初め式(昭和10年5月11日)

丸子橋渡り初め式(昭和10年5月11日)

丸子橋が開通したのは、昭和10(1935)年5月11日だった。人々は小旗を手に、できあがったばかりの「丸子橋」へ集まり、その完成を祝った。

工事費用は50数万円、長さ400m、幅11m。2年の歳月を費やして、ついに「丸子橋」が完成した。

渡りはじめの列が川崎側から東京側へと動き出した。神主に続いて親子三代夫婦、そしてこの橋を造るために力を尽くした人々の列が続いた。この中に中原町長の安藤安もいた。

丸子に橋を造る願いは、明治17(1884)年に始まる。安藤久重(小杉)・朝山信平(神地)・原文次郎(小杉)の3人から、第1回の出願があったが、許可にならなかった。

明治34(1901)年秋、宮本正證(宮内)・小山金太郎(小杉)・島田太郎吉(神地)が第2回の出願をしたが、却下された。

第3回の架橋運動は、安藤安(小杉)・朝山信平(神地)・原伝蔵(小杉)を中心に大正9(1920)年から始まった。

大正11(1922)年には、大竹静忠(丸子)も参加し、私財を投じた。

運動を盛り上げるため、渡し場の近くに大きな看板を立てたり、宣伝ビラを数万枚印刷し、渡船利用者に配った。また、大楽院や泉沢寺で何回も会合を開いた。

安藤安は中原町長になると、東京府の大崎・平塚・池上・馬込・調布の各町村長や、川崎の橘・日吉・宮前(みやざき)などの村長と手を組んで、神奈川県や東京府。国に何度も陳情を繰り返した。

こうした長期間にわたる努力がやっと実り、ついに丸子橋が造られることになった。昭和7(1932)年10月5日に起工式が行われた。第1回の出願から43年後にやっと完成したのだ。

<請負人>

  • 橋脚  錢高組
  • 上部構造  横川橋梁会社
  • スラブ及び上面舗装  竹下組

丸子の渡しと完成した丸子橋(昭和10年5月)東京側より上流のようす

丸子の渡しと完成した丸子橋(昭和10年5月)東京側より上流のようす

昭和10年5月、完成した丸子橋

昭和10年5月、完成した丸子橋

平成12年6月10日(開通)前に立てられた看板(平成5年)

平成12年6月10日(開通)前に立てられた看板(平成5年)

写真(下):丸子橋の架け替えのために造られた仮橋(手前)と新しい丸子橋(アーチ)(平成12年)

写真(上):丸子橋の架け替えのために造られた仮橋(手前)と新しい丸子橋(アーチ)(平成12年) 写真(下):丸子橋開通記念式典会場のようす(平成12年6月10日)

写真(上):丸子橋開通記念式典会場のようす(平成12年6月10日)

東横線(電車)鉄橋と多摩川交通公園(昭和46年)。左側は新丸子駅へ、正面の森は亀甲山公園(東京側)

東横線(電車)鉄橋と多摩川交通公園(昭和46年)。左側は新丸子駅へ、正面の森は亀甲山公園(東京側)

丸子橋(昭和41年) 橋の手前一帯に「青木根」の集落があった

丸子橋(昭和41年)
橋の手前一帯に「青木根」の集落があった

丸子橋(昭和41年) 多摩川の真上の部分。橋の向こうは亀甲山古墳(公園)

丸子橋(昭和41年)
多摩川の真上の部分。橋の向こうは亀甲山古墳(公園)