歴史資料室

「中原街道と周辺の今昔」デジタルアーカイブ

多摩川の河原

多摩川の堤防の切れ目。正面は丸子橋。車、人は自由に往来できた。切れ目は赤レンガで、両側とも幅10cmほどの溝があった(平成12年)

多摩川の堤防の切れ目。正面は丸子橋。車、人は自由に往来できた。切れ目は赤レンガで、両側とも幅10cmほどの溝があった(平成12年)

中原街道を東京に向かって歩くと、多摩川の堤防に突きあたる。

この突きあたりが平成14(2002)年2月までは切れ目があり、人や車が出入りできた。

この堤防の切れ目は、赤レンガで側面が補強され、両側に幅10cmほどの溝が上から下まで造られていた。今は埋められ堤防となってしまい、その面影はない。

この溝は多摩川の水が増え堤防を越そうとする時、厚い板をここにはめ込み外側に土のうを積み重ねて、洪水等の水をくい止めるために造られたものであるが、一度も使ったことがなかった。

ここから上流を見ると、鉄筋で青色のアーチの橋が見える。この橋は、平成12(2000)年6月に完成した新「丸子橋」である。その先に銀色の車体を輝かせて走る東急東横線、みなとみらい線、目黒線の鉄橋が見える。

広い河原は公園や野球場になり、堤防上はサイクリングコースになっていて、親子連れや家族連れの楽しそうな姿が見られる。

しかしこの多摩川は、今のようなしっかりした堤防がなかったので、度々水害を起こしてきた。明治40(1907)年、43(1910)年、大正2(1913)年の水害は特にひどかった。

見渡すかぎり濁った水に浸り、水が引くまで何日も苦しんだ。

中原、住吉、日吉などの水害のひどい村では、相談して早くしっかりした堤防を造ってほしいと神奈川県に何度も陳情した。

しかし、願い出ても何等の解決もないまま12年の年月が経過してしまった。

中原街道入り口(左側が上流) 東京側と多摩川を望む(昭和46年)

中原街道入り口(左側が上流)
東京側と多摩川を望む(昭和46年)

側面の溝(昭和50年) 左側は多摩川、右側は道路・丸子方面

側面の溝(昭和50年)
左側は多摩川、右側は道路・丸子方面

 

堤防の切れ目から丸子方面の(中原街道)家並み。右側の壁に縦の溝が見える。溝は左右にある(昭和49年)

堤防の切れ目から丸子方面の(中原街道)家並み。右側の壁に縦の溝が見える。溝は左右にある(昭和49年)

大正3(1914)年、村々の男子500人余りが夜明け前に、草履ばきでアミガサを目印にかぶり、県庁に押しかけた(アミガサ事件と呼ぶ)。こうした人々の願いがやっと実って、大正7(1918)年から昭和8(1933)年までの16年もの長い年月をかけて、多摩川の河口から久地(高津区)までの間に堤防が造られた。

総工事費588万円(神奈川県164万8400円、東京府129万1600円、国庫補助294万円)の改修案でスタートした。

今は水の量もそれほど多くなく、低い所を流れているが、この川が多くの人々に苦しみを与えてきたとは、とても考えられない。